愛人猫トラ子の姿がもう2週間近く見えない。最後に会ったのは台風の前だった。遠くから鳴きながら走ってきて、いつも通り贅沢にシーバをガツガツ食べた。後ろ姿があまりに痩せていたので、嫌かもしれないなとおもったけど、腰のあたりをなでた。「痩せたねえトラちゃん、しっかりね」。あれは、わたしの野生の勘、虫の知らせだったのか。
台風の夜をどんなふうに過ごしたのか、わたしは知らない。台風のあとの数日、なんだかんだと忙しなく過ごしていてトラ子のいる丘に行かなかった。やっと時間が出来て出かけたらいなかったのだ。時々姿が見えないときもあったけれど、翌日行くといつも通り、にゃ〜っと鳴きながら出てきた。今度もそうだろう、いや、そうであってほしい。そう望みをかけて通う。でも本心は、今回だけはもう会えないのかもしれないと思っている。空振りだろうと思いながらも出かけているのだ。
「ひよっこ」も「やすらぎの郷」も終わってなんだか淋しい秋だけど、それよりも今のわたしは「トラ子ロス」である。散歩の理由が突然なくなってしまったのだ。もう7、8年続いていたのに。仕事が乗ってきて散歩に行くのをためらうときも、小雨が降って出かけたくない冬の午後も、トラ子のことが気がかりで支度をして外に出た。
トラ子に避妊手術をしてやったという赤い口紅のマダムなら、事情を知っているかもしれないと思って時間帯をずらして行ってみたけれど、会えない。もしかしたら、あのおばさまが弱ったトラ子を猫屋敷に連れていって、他の猫たちと一緒に面倒を見てくれているのかもしれない。きっとそうだ、きっときっと。
でも、わたしは思い出した。飼い猫ではない、愛人猫の最期を見届けることができない淋しさを。見届けないから、どこかで生きているのではないかと諦めきれないモヤモヤしたきもち。さよならが出来ないまま、お別れするのが愛人猫なのね。
また明日もわたしは出かけてしまうのだろう。空振りでもいい。
トラ子の丘にきれいな黄色の菊が咲いていた。